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【どちらが本質なのだろうか】人間の奥底に眠るもの。性善説と性悪説に基づいて考えると悪じゃん?

  • 2018年4月19日
  • 2019年2月17日
  • 考察

 

 

 

 

 

外に出てみると、日々色んな人を見る。本当に一般人でも、聖人かこの人?って思う人もいれば、何を考えたらこんな極悪なことが出来るんだろうと思う人まで様々。たまーにぼーっと他の人を(不愉快にならない程度に)眺めてみると面白い発見が見つかるかも。

 

そこでふと気になったのだが、人間の本質って善なのか悪なのかどっちなんだろう?っていうお話。本来の人間って、どっちの性質を持っている場合が多いのか気になってきてね。Omochi個人の主観が入っているので、あくまで読み物として読んでみてね!。行きましょう。

 

 

 

セージorデビル?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

人間の善意と悪意

 

人間って、行動を起こすには必ず理由が存在する。

その理由の原因となるところに、個人の善悪って存在していると思うの。

例えば、何かものを寄付(募金)するとき。

見知らぬ人に向けて、金品を無償で渡す→その理由は、誰かを助けたいから→善意につながる。

こんな感じね。

 

 

世の中のすべての物事が、善に流れたり悪に流れたりしている。

どちらか一方に思いっきり偏ることは、あんまりないとは思いたいのだが。

Omochiは人間とは基本的に悪の性質を持つ生き物である

と思っているよ。

だから他人と接する時には、前提としてこれを念頭に入れておくべきだ。

やはり警戒心って、無いと自分が喰われるだけだからね。

そうならないように。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

他人が考えていることなんかすべてわからない

 

ぶっちゃけこれに尽きる。

どんだけ仲良くなろうが、その人のことをわかろうと推察しようが全て相手が考えていることなんかわからないわけだ。

だってそうでしょ。

家族間同士であろうが、意見の食い違いがあるように完全にすり合わせるのは無理だ。

 

これがそのコミュニティから離れた人間相手だと、もっとすれ違いが起きる可能性は高くなる。

雇われているなら職場の相手全て、今までの人生で作った友達、個人で働いている方はクライアントの方針など様々でしょ?

かなり人を疑ってかかる癖が強くなってしまったOmochiは、人によって程度の違いはあるけど中々心を許せない原因の一つ。

特に職場でかかる人間なんか、いくら外面がよかろうととてもじゃないけど心を許せない。

だって、口では良いこと言っていても他人を貶める可能性って完全に排除できない。

もしその人がピンチになった時に、他人を助ける余裕なんかあると思う?

Omochiは絶対にないと思っているし、恐らく自分がその人の立場でも手を差し出すことはない可能性が高い。

ということは、人間だれしも自分が一番かわいい生き物なので犠牲にする方法を選ぶことは希だろう。

だから人の奥底に眠っているのは、悪の本質なわけよ。

 

 

 

 

 

 

これを体現するのが、性善説と性悪説

 

人間の本質を唱えるために、よく用いられるのがこの2つ。

このワードは、小学校や中学校の歴史の授業と習ったことがある人が殆どだろう。

絶対に聞いたことのあるワードのはずだ。

 

 

 

 

性善説

 

これは、人間の中に眠る本質は基本的に善だとする説のこと。

昔の中国で儒家だった、孟子が唱えた説の一つ。

全ての人には、生まれながらにして聖人になる可能性を秘めており素晴らしい人になるかもしれない。

悪に心を動かされるのは、その可能性をきちんと自分で把握していない状態にあるということらしい。

 

 

分かりやすく言うと、犯罪を起こしてしまった人を連想してほしい。

罪状はまぁなんでもいいんだけど、必ず一定数は“自首”をする人が居るよね?。

彼らの供述をニュースで聞くと、「良心の呵責に耐えられなかった」というのが多い。

これは、まさに事件発生当時は聖人になる可能性から、目が行っていない状態だったと言える。

後に、それに気づき自分の罪を反省するというわけ。

このように、悪事を働く人間すべてが根っからの悪人ではないということの証明になる。

こんな感じの教えが、性善説というわけだね。

 

 

 

性悪説

 

さっきとは逆のことを唱えているのが、これになる。

これを唱えたのが、またまた昔の中国で思想家だった、荀子が唱えたと言われている。

これは、人間の中に根付く本質は基本的に悪に染まっている。

善は、生まれた後にその人が行ってきた行動により積み重なってできた後天的なものであるといった、解釈だそうだよ。

 

 

これも世の中の、犯罪を犯してしまった人で考えてみようか。

自首する人もいれば、どこまでも徹底的に逃げて罪を消そうとする人もいる。

むしろ心理的には、こういう行動をする人間の割合のほうが多いんじゃないかな。

その場合、逮捕された後の供述では「一切関係ない」といったスタンスをとることが多い。

もしくは「たとえ認めたとしても、間違ったことはしていない。だから反省する気は一切ない」みたいな理由が多いんじゃないかな。

こういう人たちは、誰の目から見ても根っからの悪人だといえる。

 

 

 

そこから考えてみても、悪いことをしようとするのは快楽や逃避を求めてやることが多い。

だからその禁断の実を手に入れるのに最も手っ取り早いのが、ルールで定められている悪いことだ。

もちろんやる前に葛藤が生まれる人もいるんだろうけど、中には一切葛藤が無いまま実行する人だっている。

行動に移すまでの心理的ハードルが低いからだろうか?

 

逆に善い行いって、人に広まり理解されるまで多大な時間と労力を要する。

本来ならばこちらで自分の欲を満たせるのが、最も良いのだが悪いことに比べて非常に手間がかかりやすい側面を持つ。

だからこっちに手を委ねようとしても、上手くいかないもしくは理解されないことが多く挫折してしまいやすい。

手軽に快楽や逃避を求められるものではないので、難しいところだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

やはり人間は性悪説にとらわれている

 

そういうわけで、人間は性悪説に基づいて悪の本質を持っていると言えるわけだ。

人間って無意識に楽なほうへ逃げてしまうモノだから、悪のほうが比較的そういう傾向にある。

だから永遠に悪事が0になるとはありえない。

よって、他人と接するときは何かしら相手を疑う心を少しでも持っておくべきだ。

自分が蔑ろにされないためにね。

 

 

とはいいつつも、理想を語るなら善の生き物であってほしいとも思う。

そうすれば、世の中の悪事って無くなる可能性が考えられるからね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今回はここまで。

改めて考えてみると、こういった心理の話は奥が深いなぁと思うよね。

専門的な知識があるわけではないので、一部おかしなところもあるかもしれないけど…。

皆が率直な感想を言い合ったら、いろんな意見が出てすごく面白そう!

 

 

 

 

こいつは、素晴らしい善の人間だ!