相手と会話するときは、所謂言葉のキャッチボールを行うよね。
片方が発信すると、もう片方はそれを受信する。
受信した側は、返答として相手にまた発信するといった具合に。
しかし、そのキャッチボールを一発で一刀両断する魔法の言葉がある。
それを使うと考える必要が無いので楽だが、本人にとっても周りにとっても大変よろしくない。
基本的に「わかりません」という言葉を乱発すると、何のためにもならないよ。
え?、わかりません(笑)
分からないこと自体は、誰だってある
学生なら日々の勉強。
社会人なら、日々の仕事でよくぶち当たることが多いだろう。
「これについて分からないから理解が出来ない・あの人の説明が分からない」
みたいなね。
人間って、自分が経験したことのない範囲のことはあたり前ながらわからない。
全てを知っている全知全能の人間なんて、有史以来そもそも存在しないでしょう。
どれだけ頭が良くても、世の中に知らないことがあって普通なんです。
その知らないことに対して人がどんな反応するかって、その人次第なんだよ。
結果的に頭がよくなった人って、わからないことに対して自分から食らいつこうとする。
そこから知識や新たな経験を経て、自分の糧になっていくんだよね。
繰り返していくことにより、その量が人より増えたから知ってることが多い人になる。
でもね、やっぱりみんながみんな人間出来ているわけではない。
幾つになっても幼稚な人・年不相応に知らないことが多すぎる人・そこから性格が歪んでしまった人など枚挙にいとまがない。
果たして自らそんな人間になりたいと思う酔狂な奴は、まずそうそういないだろう。
なりたくはない。
でも気づかぬうちに、日ごろの生活で口走っていないか?
このような言葉を。
「わかりません」
使い続けても、逃げているだけで何の解決にもなっていないからちょっと考えてみようか。
わからない=単なる逃避という事実
まぁ深く考えなくても、これが成立することくらいはなんとなく想像がつくでしょう。
わからないという言葉は、相手の返答を遮断する言葉になる。
ということは、有無を言わさずその会話をぶった切ることが可能。
はい、その後無言を貫けばその話題はもう完全になかったことになるよね。
さて、ここで考えてみてほしい。
相手の発信に対して、受け取る側が完全に拒否してしまったらその後には何も続かないよな。
会話を交わすことでの発展が全く無くなるのと、ほぼ同義だよね。
加えてあの言葉は、正直何も考えていなくてもすぐに発することが出来る。
場所・場面・相手を問わず使用することであらゆる会話を一刀両断する。
だから放った側は、余計なことを考える労力が無くなる代わりに、考えることをしなくなるわけだ。
この考えることをしなくなるって、人間としてかなり致命的な欠陥だと感じるんだよね。
だってさ、そういう人と自分が会話したときにどう思う?
こっちから話題・質問を投げたときに、相手がすぐさま「わからない」類の言葉を言って来たらそれで終わっちゃうでしょ?
相手の考え・感情・知識などを総動員して、お互いの会話を弾ませることで気づくことや学べることってあるんだよね。
なのにそれを全て一発で放棄してしまう言葉を乱発すると、そりゃあ何も生まれなくなるよ。
「わからない」のみを受け取った側は、取りつく島も無くなってしまう。
逆に放った側は、何も考えることをしなくなる。
お互いにとって、次の発見を得るというプロセスを放棄してしまう結果になるんだよね。
こんなんじゃあ、互いにとって良い影響は一切なく悪い影響しか残らなくなってしまう。
特にこれをずっという人間ほど、碌な奴は居ない。
人間の大事な部分である、“考える”という行動をしないとまともになんかなれるわけがない。
分からないなら、まずは自分で考えてみる
最初のほうで、人間だれだってわからないことはいっぱいあると言ったじゃない。
それは当たり前なのよ。
知らないことを質問されても、確かに「わからない」と一蹴したくなる気持ちは分かる。
そうすれば、余計な労力を使う必要が無くなるからね。
でもそれじゃあ何も成長しない。
だから、その時分からなくてもいいからあらゆる手段を使って自分で調べて考えるのはとても大事なんだよ。
これは若者だろうと、ベテランだろうと、お年寄りだろうと全然関係ない。
すべからく人類全員に当てはまると言ってもいいくらい、普遍的であたり前なことだよ。
聞かれた時点でどうしてもわからないならば、それはしょうがない。
たまたま自分の専門知識範囲外な質問だったってだけの話だから。
その時は、ちょっと運が悪かったくらいに軽く思っていても問題ないよ。
ただし、ここから先が重要だ。
どうしてもその場で対応しなければならないとき以外は、一度落ち着いてみること。
そこからその質問について、自分が分かるような状態に持っていくのが超大事。
まず初めにとるべきは、自分で調べながらどういうことかを把握すること。
恐らくノーヒントで解決するようなレベルの話ではないことが、往々にしてある。
経験が多い人なら、過去の経験をもとにどうすればいいのかはある程度見当がつくかもしれない。
しかし経験が浅い人だと、それに頼ることが出来ないので自分で調べる必要性が高くなる。
だから自分であれこれ他の事例を調べて、どうするかを考えていくよね。
それでもわからない場合は、他人の知識を借りたって問題ない。
その知識を自分のモノとしたうえで、最初の質問に答えてあげることによってお互いにいい影響が出るって思わないか?
聞かれたときに、「わからない」と一蹴するよりも確かにかかる手間が大きい。
ただそれで終わらず、自分で調べて考える・他人の知識を借りて自分のモノにするといったプロセスを踏むことで間違いなくその人の知っていることは成長するよね。
おまけにその一連の流れも、一種の経験として蓄積される。
だから次に似たようなことがあっても、今度は自分一人でもっと時間が少なく迅速に対応できる可能性はどんどん高くなる。
繰り返していけば、どんどん知識量が増えて結果としてはすごい人・頭がいい人として周りに認知されやすくなるわけだ。
どんな物事にも言えるが、知らないことに対して対応を変えるだけで今後見える世界が少しずつ変わってくる。
ほら、いずれにせよわからないだけで済まされるとこちらとしても悲しいし
「おいおい、話を終わらすなよ!」
と思ってしまうでしょ。
自分がされて嫌だと感じたら、極力自らすべきでないよ。
分からないで決して終わらせないように!
そういうわけで、「わからない」という言葉は
自分が楽になる代わりに、何の成長も見出さないある意味魔法の言葉だってわかったでしょ?
周りに乱発している人が居たら、よく観察してごらん。
大体そういう人って、面倒な人だとかマイナスイメージばかり持たれている傾向が強いから。
わからないなら、わからないなりに自分で考える癖を持つことは重要。
昔の自分より、どこかしらを必ず成長させたいと願うならばすぐにわからないで一刀両断しないこと。
面倒でも必ずその手間を惜しまなければ、日々の自分への蓄積として経験・知識がどんどんたまっていくからぜひ念頭においてほしい。
もちろん、俺だって頭の片隅に常に置いて仕事やブログに励んでいるよ!
いつだってこの考えは、頭の根底に置いておくと後々色々得があるからな。
今回はここまで。
この話、ディズニーランドのキャストは、ゲストに対してわからないと言ってはならないという規則があるらしい。
そこから、ふと思いついた話なんだけど夢の国は本当に徹底しているなぁとしみじみ思った。
分からないのでちょっと考える時間を頂けますか?