他人に対して、手を差し伸べたり助けたりする優しさって素晴らしいことだ…。
困っている人が居たら、協力を申し出てあれこれやってあげる。
それが自然と出来る人は人徳者だし、周りからも尊敬されやすい。
しかしそんな他人に対する”優しさ”は、いつの間にか別のものに変わることがある。
そう、よく引き合いに出される”甘やかし”だ。
今回は「優しさと甘やかしは、全然違う」ことについて、はっきりさせようと思います。出来れば前者のみを、周りにもたらせるのが理想だ!
相手の優しさはありがたく受け取ろう。
優しさという美徳
優しい。
言われて嬉しい言葉の一つである。
誰に対しても、区別無く優しさを振りまける人は得てして”良い人”だと思われ好感度が高くなる。
(ただし、恋愛においてはコレだけだと決定打に欠けると思われがちだが)
家においても、外においても誰に対しても優しい人は感謝をされやすい。
そりゃあ優しさから来る行動って、助けることに繋がる場合がとても多いからね。
はたから見れば、立派な美談としか言いようが無い。
それが自然とできるようになりたいなぁ…。
しかしだ。
優しさのすぐそこには必ずと言っていいほど、”甘やかす”という言葉が眠る。
よくこの2つは、セットで引き合いに出されることが多い。
それほどまでに、何も考えないでいると混同しやすいと言う点がある。
相手のためにならない優しさは、間違いなく単なる甘やかしに繋がる。
ここの2つは、自分の中ではっきりさせておくと本質を見抜けるようになるよ!
甘やかしは、人間を堕落させる禁断の果実
一般的に甘やかすことは、人間にとってよくない影響を与える。
子ども相手にだと、コレを耳にする機会も多いでしょう。
甘やかすorされてしまうと、受け手側は間違いなく徐々に人間としてだめな方向へ突き進んでしまう。
甘やかす過程において、受け手自身が何も行動を起こすことが無い故に学びが無いからだ。
たとえその人が出来ないからといって、全てを手取り足取り他人がこなしてしまうと出来ない人間は前進が無い。
これでは何時まで経っても、出来ない側の成長は見込めないので他人を頼り続けるしかなくなる。
(物理的やルール的に出来ないことは、例外があるよ)
人は自分の成長のために、自分で体を動かし頭を回転させないと出来るようにならない。
思考の変化においても、技術習得においても全く同じ。
せっかく出来るようになるかもしれないチャンスを、他の人が”答えや代わり”を持ってすべてやってしまうと何の意味も無くなる。
それは所謂甘やかしに繋がる行為なわけだ。
本当にこれをやって、相手のためになるのか?を一度考えてみると、優しさか甘やかしかはっきりしやすい。
過程や結果の後に、何か吸収できる要素はあるか?
優しさと甘やかしの一番の違い。
さっきも言ったように、手を差し伸べた相手にとって何か成長や学びが残ったかどうかがポイント。
残っていればそれは優しさと言っていいし、残らなければ単なる甘やかしに過ぎないと言う寸法。
もし自分が受け手側になったときも、ここについて一回考えてみるといい。
以下、具体的に今まで自分が出会ったパターンで説明してみるよ。
思い返すと、結構当てはまるもの。
例えば勉強を教えるとき
たまーに当ブログでも出てくる、Omochiのお兄様や妹様。
兄弟姉妹なので、ある程度勉強を教えるなんて事は結構あった。
もちろん親から教わることもあったけど…。
ここで教える側のやり方によって、2つのパターンに分かれる。
答えまで全て教えてしまう
問題を解く上での最終的な目標は、答えを合わせること。
なんだけど、甘やかしの場合答え込みで手取り足取り教えてしまう。
解くまでの過程もそうだし、答えも教える側が提示してしまうと考えることをしづらくなる。
それでは思考する力が生まれなくなり、次に似たような問題が来ても解き方が身につかないので助け無しに答えられない。
これは完全にアウトだね。
せっかく考えれば受け手でも出来る可能性が眠るのに、他人が完璧に舗装すると何の意味も無くなる。
試行錯誤はある程度必要だよ。
やり方を有る程度教えつつ、答えにたどり着くまで見守る
こちらは、多少のヒントを与えた後はしばらく様子を見るパターン。
また行き詰ったら、新たなヒントを与えて様子見を繰り返すことによって答えにたどり着く。
そうすることで、解き方の過程を自分で考えて答えに導くので、受け手がちゃんと考えて行動している。
よって、こちらは優しさの部類に入るでしょう。
子どものわがままに対して
コレも想像しやすいかな。
子どもがわがままな状態のに、周りはどう接すると優しさか甘やかしになるのか?
ここもやはり、後に何が残るかに焦点を当てると分かりやすい。
嫌がられたり面倒になるのが嫌だから、とりあえず要求を飲んでおく
まずは、今よりも面倒にならないことを想定したパターン。
なにかわがままを言われたときに、基本的に要求どおりにしてしまうとそれは甘やかしに繋がる。
こちらが手を差し伸べたところで、相手には快楽だけしか残らずに学び(ここでは耐えること)が一切無い。
これでは相手が本能でやりたい事のみだけになってしまい、成長するのに必要な要素が受け手に全く伝わらないね。
おまけに要求すれば、何でも通ると増長させる原因にもなるので長い目で見ると非常にマイナスにしかならない。
受け手にとって必要な要求ならきちんと飲み、不要なら理由を説明して納得させる
こちらは逆に、要求を突っぱねることもあるパターン。
単なるわがままから起因するものならば、大半は不要なものばかりなのでちゃんと我慢させることを覚えさせる。
しかし、必要なものの場合はきっちり吟味してから叶えてあげる。
これが優しさだね。
こういうのは、やはり子どもや年下に対する接し方で考えると実感がわきやすい。
今一度、手助けする前に改めて確認しておくべき。
相手に手を差し伸べるときは、この2つを履き違えないように注意しよう!
受け手側は、どちらにとってもその場では助かるように見える。
しかし長い目で見てみると、本当に手助けをしているのは優しさから起因する行動のほうだ。
面倒だから甘やかして解決されたのであるならば、それは全く受けて側のためになっていない。
ずっと同じ失敗の繰り返しになってしまう、裏に隠された悪循環と言える。
だから、その大きな違いが”優しさ”と”甘やかし”が決定的に別物だって事。
何も考えずに手を施すと、本当に簡単に後者になるから気をつけてね。
今回はここまで。
混同しやすいものだからこそ、本当に大事なほうを見失わないで欲しい。
正解の道の先には、立派な人間像が待ってくれていることでしょう!
優しさを追い求め、甘やかしはダストシュート…。