記事公開日:2018年12月18日
最終更新日:2025年3月26日
「他人をあてにするのは手痛いしっぺ返しをくらう」。人間はお互いを頼って生きていく動物。
そこには大きな協力関係があるので、できないことを補い合うことで社会を形成してきた。
”私は人に頼られるのは好きだが、あてにされることは嫌いなんだ”と言われるように、この2つの言葉は非常に近しい関係にあるけど…。
相手をあてにするというのは、一見頼るのと似ているように見えるが、実は全然違うんだよ。
あてにするは明確に悪い意味だ。
頼る・あてにするは正反対
人はみんな、自分が得意なことやできることがバラバラで、他人同士が完全にピッタリ同じってことはまずありえない。
計算が好きな理系の人もいれば、文学や歴史が好きな文系の人というように、一種の好みだけで見ても大きく違うのが普通。
全然傾向が違う人同士がいれば、それぞれの不得意をカバーしあえる関係に早変わりだ。
我輩らは決して、一人だけで生きていけるほど人間単体は強くなく、できないことがある。
そんな困ったときは、他人を頼るということに自然と手助けをしてもらって、ここまで来た。
多分それは、自分の寿命が尽きるまでは永遠に繰り返していくと思う。人は生涯を通して、100%孤独にはなれない。

頼るというのは相手に手伝いをお願いすることになるんだけど、似た行動としてあてにするってあるじゃんか?
コイツなんだけど、我輩思い返してみれば人生の分岐点でも無意識にこれやってたなと思う。
相手をあてにすると、悪い自分が表に出てきちゃうので本当にこれはよろしくない。良いように甘えちゃダメだ。
関係性にひびが入っても知らないよ?
間に甘えが入るかどうかが決めて
誰かに何かをお願いするシーンは、仕事でもプライベートでもたくさん出くわすと思う。それ自体は普通のこと。
自分にはない他人の力を借りたいときに、相手を頼るなんてのはどんなにすごい人であれ全く経験がないなんてのはない。
ただここに自分の思惑がどう混じるかによって、行動の意味としては大きく変わってきちゃう。良い意味でも悪い意味でも。
我輩のイメージとしては、頼る=相手に何らかの協力を依頼するが、あくまで自分ベースでの解決行動につながるモノ。
一方のあてにする=協力の依頼そのものは変わらないものの、自分の労力をとにかくカットして対価を不当に得ようとする。
本来であれば依頼側が主で行動をするべきなのに対し、そうせずに相手の時間と労力を犠牲にしている感じかな。
一言で言えば、”甘え”の要素が入ってる。

これに慣れてしまうと、最初はものすごく自分が楽できるうえに欲しい結果が付いてくるから、かなり気持ちいいんだよ。
ただいつしかそれが普通になり、自分にとっては人間として何か成長したりが滞っちゃうからよくよく考えると損してる。
これが自分にだけしか、悪い影響を及ぼさないのであれば、まぁ自業自得の一言で片づけられるんだけど、現実は違う。
もっと嫌なことにつながるぞ。
人が離れていくこの感覚
この誰かをあてにする行為、吾輩は高校生の頃が一番酷かった。その最たる例が、大学受験時の自分だね。
あまりにもやりすぎた結果、現役での受験を失敗したうえに、一度家庭内を己の錆で大きく腐食させてしまったのが…。
ここを読みに来てくれた、特に学生のあなたには絶対こうなってほしくない。周りも間違いなく不幸にしちゃうから。
何があったかと言うと、受験について自分でしっかり考えずに親をあてにしてしまっていたから。
一つ目は費用を出してもらって予備校に通っていたのだが、時間とお金を無駄にしていたんだよ。
一応授業には出てたんだけど、まともに勉強する気が無く、まぁびっくりするほど成績が上がらない一年を過ごしてね。
予備校に勤務していた相談役の人と面談をしても、適当な返事ばかりで全然主体性が無かった。それじゃうまく行くわけがない。

二つ目はオープンキャンパスすら、まともに自分で行こうとせず、全部親の送り迎え付きで好き勝手あてにしていたのは中々ヤバかった。
普通は自分が行きたい大学に自ら出向き、校内をしっかり観察して本当にいいかどうか見極めると思うんだけどさ。
我輩はそんなこと考えておらず、とりあえず行ったという事実だけを作りに出かけてたという感じか。何しに行ってたんだ?
当然主体的じゃなかったので意味がない。

他にも細かいことも含め、自分でやろうとせず親や周りの大人を思いっきりにあてにしたところ、段々カオスに。
案の定受験は失敗し、日ごろの態度も相まっていろんな人から相当に詰められた。あの時はまぁ酷かったというか…。
家の中では親や兄と大喧嘩になり、予備校の相談役の人には愛想をつかされ、どうしようもない奴扱いで居場所が消えた。
それでも一年間決してちゃんととは言えないが、勉強しなおしてとりあえず大学には入れたんだが、なんだかなぁ。
ただし今考えても、当時の自分にははっきり言って同情の余地がない。そりゃこんなの、相手にしたくないでしょ。
というように、他人をあてにしまくったところ、自分が居られる場所を自ら潰してしまったことになったんだよ。
相手への協力に自分の甘えをねじ込みまくると、後になって痛い目を見たという具合。ああ、コイツはどうしようもない。

人は相手がいて、初めてその居場所を作り出すことができるけど、肝心の相手が自分からどんどん離れていくこの感覚。
それは呆れや失望、苛立ちを植え付けてしまうと、距離を置かれるのは当たり前。
気づいたときには、自分の周りにはもう誰もいない、なんてのはあまりにも悲しすぎないか?
人をあてにしてない?
振り返ると、相手になにかお願いすること自体は全く問題ない。誰でもそうだから、別におかしなことじゃないし。
ただし、その時に一旦考えて”あてにする”ようなことにつながらないのか。ぜひとも気になれば、立ち止まって考えてみるべき。
この中に、何か自分を変に甘やかすような要素や言葉が混じっていないか。もちろん常に考えろとは言うつもりないけど。
人をあてにしまくると破滅を呼ぶよ。
今回はここまで。受ける側も、頼られれば嬉しいのは間違いない。その人は自分を買ってくれてる証拠にはなってるから。
ただし良いように使われる=あてにされるのは、そりゃあ相手からしてもいい気分がしないのは当たり前。わきまえは大事。